アジア写真帳>アジア写真帳(タイ)>アジア写真帳(スコータイ)>ラム・カムヘン大王碑
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ラム・カムヘン大王は、スコータイ王朝の第3代目の国王です。スコータイ王朝はタイ民族としては初の王朝ですが、その最初の国王はラム・カムヘン大王の父、2代目国王はラム・カムヘン大王の兄にあたります。 ラム・カムヘン大王がその碑まで建立されている理由は、大きく三つあります。一つは若いときから勇敢で彼が国王時代には、今のタイ国領土を上回る地域を治めることができたという点です。二つ目は、大変、慈悲深い政治を行い、人民に深く慕われたという点です。そして、三つ目は、タイ文字を発明したという点です。従来のクメール文字に代わり、タイ独自のタイ文字を発明したということは、タイ民族にとって大変大きなことだったと思います。 この日は、ご覧の通り、修復作業中でしたが、どうです、若くて立派な王様でしょう |
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ラム・カムヘン大王記念碑の周りには、6枚のレリーフがあります。これらについての解説は専門家の先生に任せるとして、私としては、私の知っている範囲で、壁画とともにラム・カムヘン大王を紹介することにします。 このレリーフは、ラム・カムヘンが19歳の時、攻めてきた敵を象に乗った一騎うちで打ち破ったという話を描いたものでしょう。他の将校が逃げ帰る中、19歳のラム・カムヘンは一人敵に立ち向かい、見事打ち破ったものです。 実は、カムヘンとは「勇敢」という意味なのですが、この戦いでの勝利を契機に、父である初代国王から授かった名前だといわれています。 |
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ラム・カムヘン大王の時代に、スコータイ王朝は隆盛を極めますが、その特徴の一つに小乗仏教を保護奨励したことがあげられます。 ラム・カムヘン王の碑文にも、「スコータイ市民は慈悲深く、敬虔で施しに熱心である。王族、貴族はもとより、市民に至るまで、男女すべて仏教に帰依している」旨の記述があります。 |
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これは、兵が凱旋して帰ってきたところでしょうか。 ラム・カムヘン大王の時代に、スコータイ国の領土は、東はラオスのルアン・パバーン、西はミャンマーのヤンゴンの先まで、北はチェンマイ、南はナコーン・シー・タマラート県までという広大な領土を獲得することとなりました。 レリーフには、騎馬、象に加え、牛も描かれています。 |
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これは、人民が王様に食物、お酒の類を献上しているところでしょうか。 ラム・カムヘン大王の時代には、スコータイの国土は相当に繁栄したようです。碑文には、「水の中には魚が住み、田んぼには米が実った。市場で商売をする者や道行く人民から、税を徴収したりしなかった。」「この国には、椰子、ジャックフルーツやマンゴーの木などが豊富に植えられている。これらの果樹を植えた者は、誰でも自分のものとして収穫することができる」などと記載されていて、豊かな人民からの献上物は大変多かったのだろうと想像できます。 |
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このレリーフからは、ラム・カムヘン大王が人民からどんなに慕われていたかを知ることが出来ます。 ラム・カムヘン大王の碑文には、次のような一節があります。 「ラム・ガムヘン大王は、タイ領土の全域を統治した。王はすべてのタイ人に、功績やダルマ(法)を正しく理解するよう教えた教師だった。タイ国の中で、その学問と知恵、剛勇と勇敢、強さと精神において、ラム・カムヘン大王と比肩できる者は、誰一人としていなかった。」 彼は、王であり、神のような存在であったと言えます。 |
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このレリーフは、おそらくラム・カムヘン大王の石碑文を作成しているところをイメージしたものでしょう。左奥に座っているのが、ラム・カムヘン大王、大王の右前の細長い四面体みたいなものが石碑でしょう。 タイ文字を発明したのがラム・カムヘン大王だといわれていますが、実は、最古のタイ文字は大王の石碑に書かれたものです。タイ美術の詳しい金子民雄氏によれば、ラム・カムヘン大王の石碑は、天頂は丸っぽく、ずんぐりした四面体、高さ111センチ、幅35センチとのことですから、ちょうどこのレリーフに描かれているものがそれにあたるものと思われます。 それまでのカンボジア(クメール)の支配から離れて、独自の文化・文字を作ったのがスコータイ王朝のラム・カムヘン大王の時代です。まさに、タイの国家としての黎明を告げるものだと言えます。 ラム・カムヘン大王の在位期間は1279年から1297年とされています。日本では鎌倉時代にあたります。 |