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アジア写真帳(上海) : 魯迅故居と内山書店

アジア写真帳(上海)


魯迅故居


 虹口(ホンキュー)とは、黄浦江沿いにある上海大厦(旧ブロードウェイマンション)のあたりから北四川路沿いに北に上って魯迅公園(旧虹口公園)の辺りまでの一帯を指していて、日中戦争のころ、一時は10万人を超える日本人が住んでいたエリアです。当時、人口約7,200万人の日本人のうち外地に住んでいた人は約600万人いたということですが、旧満州だけでなく上海にも相当数の日本人が住んでいたわけです。
 そんな虹口(ホンキュー)の街の歩き方については、見どころを@魯迅公園A魯迅故居と内山書店B多倫路文化名人街C日本人街だった頃の歴史的な建物の4つに分かれます。このページでは、魯迅故居と内山書店についてお話しします。


 魯迅公園は、かつては虹口公園と言われていましたが、中華人民共和国成立後、魯迅公園と改名されています。
 魯迅は上海の近く紹興市の生まれで、魯迅の生家も紹興市で公開されています。魯迅は日本では文学者として知られていますが、日本の大学に入学し、日本で民主主義や革命に目覚め、中国の伝統的な支配体制と、支配体制を支える儒教や悪霊支配に対して、文学という手段を使って戦い続けた人です。単なる文学者というよりも、思想家、革命家的な性格も持っていたと私は思いますし、彼の著作が、中国の近代化に及ぼした影響は、決して小さくないと思います。そうした意味で、魯迅の人気は中国人の中でも大変高いものがあり、中華人民共和国においてはその成立の思想的基盤を作った一人として高く評価されています。
 魯迅が晩年、清の政府や蒋介石の軍閥から思想犯として追われ、日本人の内山完造の支援のもと隠れ住んでいたのが魯迅公園近くのアパートであり、病により生涯を閉じたのもここ魯迅公園近くでした。虹口公園が魯迅公園と改名され、その中に魯迅記念館や魯迅の墓が作られたのにも、こうした経緯があります。


 魯迅故居へは、地下鉄の虹口足球場(虹口サッカースタジアム)駅で降り、魯迅公園を横目で見ながら、山陰道へと入ります。山陰道に曲がる角のあたりには、上の写真のように屋台のお店が並んでいて、人でごった返しています。
 一方、山陰道は道幅も片道1車線ずつの静かな通りですので、こんなところに魯迅が住んでいたの?などと思って、通り過ぎないようにしてください。当時、魯迅は日陰の身でしたから、政府などから身を隠すために、人通りの少ない住宅街に身をひそめていたのですから。

 上の写真が山陰道の風景です。この店だけに人だかりができていましたが、 ひっそりとした住宅街です。身を隠すためには絶好の場所だったと言えます。


 そして、ここが魯迅の家があった路地です。ラモスアパートという名称でした。右側の一番奥が魯迅の部屋です。 

 

 一番角の部屋が魯迅が住んでいたところです。このアパートの寝室で、魯迅は息を引き取っています。1階が居間になっていて、2階が寝室と客間、3階が子供部屋になっています。 建物内部は見ることはできますが、写真撮影は禁止されています。魯迅が書斎として使用していた机があったり、魯迅が亡くなった時に使用していたベッドが残っていたり、日めくりカレンダーが魯迅が亡くなった日で止まっていたりしていて、見る価値は十分にあります。
 当時魯迅は、共産党狩りをしていた蒋介石から、強力な支援者として手配されていたので、魯迅はこの家からほとんど外出しなかったようです。それは本人の意思というよりも、このアパートの手配などでも協力した内山書店の内山完造のアドバイスによるものだったとされています。

 

 上の写真は、この後紹介する内山書店資料館に展示されている魯迅と内山完造夫婦の肖像画です。
 先ほども書いた通り、魯迅は日本への留学経験もありそこで医学を学んだのですが、今の中国を救うのは医学ではなく思想であるとして、儒教(魯迅から見れば支配者の論理)や迷信から中国人民を解き放ち、一人ひとりが自己を確立しなければならせないという考え方のもとに、多くの作品を世に出しています。その後、中国共産党の思想にも一定の理解を示し、革命文学のリーダー的存在となったため当時の支配者である蒋介石から追われる身となり、それを陰ひなたで支えたのが内山完造なのです。



内山書店


 内山書店があった場所には、現在、中国工商銀行の支店が建てられています。四川北路と甜愛路・山陰路との交差点にあります。ここの二階に内山書店資料室があって、誰でも観覧することが可能です。銀行の一階の左側に二階に登れる階段があるので、それを登ります。いちいち誰かに二階に行くことを告げる必要もありませんので、言葉ができなくても大丈夫です。


 上の写真は内山書店資料室です。正面に見えるのが内山完造と妻美喜の社員です。部屋全体に内山書店や魯迅の写真、それに当時の虹口の街の写真が掲示され、また、ガラスケースの中には書簡や表彰状などが飾られていて、こう言っては何ですが、結構整理されています。上で紹介した内山完造夫妻と魯迅の肖像画は右側の部屋に飾られています。

 
 内山完造夫婦の写真です。もともと内山完造は大学目薬の駐在員として働いており、この内山書店もキリスト教徒であった妻美喜が、当時日本語ではなかなか手に入らなかったキリスト教関係の本を日本から輸入するために1917年に自宅の庭先に開いた店で、内山完造は時々書店の仕事も手伝う程度の関わりでした。中国工商銀行になっているこの土地に店舗を移転したのが1929年、内山完造が大学目薬を退社し書店の仕事に専念したのが1930年でした。
 上の写真の右手にお墓の写真も見えます。妻美喜は上海で亡くなり本人の完造は戦後日本で亡くなったのですが、内山夫婦の墓地は上海にあります。 


 古くて見えづらいですが、内山書店の写真です。内山書店の特徴には二つあって、一つは徹底的な掛け売りです。代金はある時払いで必要な本の注文をどんなに掛けがたまっても受け付けていたようです。もう一つは、店内にあったフリースペースで、内山サロンなどとも呼ばれていますが、本を買いに来た(見に来た)人たちにお茶をふるまい団らんするスペースが設けられていたことです。この二つの特徴と内山夫婦のお人柄で、日本人ばかりでなく、中国の知識人たちも常連のお客さんになっていたということです。
 魯迅もそうした常連客の一人で、その他に郭沫若(中国の文学者であり政治家。全人代の常務副委員長や中日友好協会名誉会長などを歴任。)なども内山サロンの常連客であった。


 上の写真は当時の虹口(ホンキュー)、北四川路の様子です。市電、人力車、洋装の人々の中に、日本語の看板が見え、着物姿の日本女性が歩いていた街です。今の虹口(ホンキュー)はご多分に漏れず、再開発されてしまっているので、この時代の面影は四川北路公園の南側あたりに行けば垣間見ることはできます。
 この内山完造の生涯は中国でも賞賛されていて、戦後の1950年から日中友好協会の会長として、日中の関係修復に向けて生涯を捧げています。招待を受けた旅行先の北京で1959年に74歳の生涯を閉じたのも、内山完造らしいものです。


 晩年の魯迅の一番の友人であり理解者だった内山完造については、今の日本ではあまり知る人も多くないわけですが、彼の生涯を知れば知るほど、その生き様に感銘を受けるのは私だけでしょうか。




 多倫路文化名人街にある内山完造の像です。数ある像の中で、日本人の像はもちろんこの内山完造だけです。
 内山完造が書店を開いていた時期というのは、日中戦争が始まる前から日中戦争終結時までですが、上海の中国人の多くは、内山完造に対しては他の日本人に向けられたような敵意を向けなかったといわれています。戦後、内山完造は失意のまま日本で暮らしていましたが、後日、日中友好協会の日本側代表として、田中角栄の時代の日中国交正常化の道筋を作りました。その相手方、中日友好協会の代表は、内山サロンにも顔を出していた郭沫若でした。
 そんな内山完造の足跡を辿る虹口の散策は、上海観光の一つの思い出にしてもらいたい素晴らしい経験です。
 なお、内山完三については、伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)に詳しく描かれていますので参考にしてください。
 

アジア写真帳(上海)  虹口(ホンキュー)を歩く




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伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)

 大正から昭和初期の上海で、文化サロン的な役割を果たした伝説の「内山書店」のオーナー、内山完三の生涯に焦点を当て、日中関係の暗黒の時代のなかで育まれた両国文化人の交流を描いています。
 内山書店の常連客には魯迅や郭沫若などがいて、毎日のように内山完三と話をしていたのですが、一方、日本の文人も谷崎潤一郎や芥川龍之介などが上海での拠点として立ち寄り、日中の文人同士の交流も行われていた場所です。
 上海で人脈を広げた内山完三が、戦後、日中の国交回復に果たした役割は大きく、一庶民でありながら私欲のない生き方を貫いたことには頭が下がる思いです。中国とのビジネスをする人には、どんなハウツーものよりもこの本をおすすめします。この内山完三の生き方には、中国の人々と腹を割って付き合う方法のヒントが沢山詰まっているからです。