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アジア写真帳(上海) : 魯迅公園と多倫路

アジア写真帳(上海)


魯迅公園


 上海を初めて訪れたのが1992年。その頃は外灘から浦東を見ると、まだただの叢(くさむら)でした。それから20年弱、上海の街はめまぐるしく変わって、超高層ビルが林立する未来都市へと変貌しています。
 そうした変化は上海に対する正しい見方であって間違いではないのですが、一方、その頃の上海がそのまま残っている地域もあります。その一つが虹口(ホンキュー)と言われた旧日本人街があったエリアです。
 虹口(ホンキュー)とは、黄浦江沿いにある上海大厦(旧ブロードウェイマンション)のあたりから北四川路沿いに北に上って魯迅公園(旧虹口公園)の辺りまでの一帯を指していて、一時は10万人を超える日本人が住んでいたエリアです。当時、人口約7,200万人の日本人のうち外地に住んでいた人は約600万人いたということですが、旧満州だけでなく上海にも相当数の日本人が住んでいたわけです。
 そんな虹口(ホンキュー)の街を、魯迅公園を起点に少し歩いてみましょう。魯迅公園へは地下鉄が通っていますので、すぐに行くことができます。


 魯迅公園は、かつては虹口公園と言われていましたが、中華人民共和国成立後、魯迅公園と改名されています。
 魯迅は上海の近く紹興市の生まれで、魯迅の生家も紹興市で公開されています。魯迅は日本では文学者として知られていますが、日本の大学に入学し、日本で民主主義や革命に目覚め、中国の伝統的な支配体制と、支配体制を支える儒教や悪霊支配に対して、文学という手段を使って戦い続けた人です。単なる文学者というよりも、思想家、革命家的な性格も持っていたと私は思いますし、彼の著作が、中国の近代化に及ぼした影響は、決して小さくないと思います。そうした意味で、魯迅の人気は中国人の中でも大変高いものがあり、中華人民共和国においてはその成立の思想的基盤を作った一人として高く評価されています。
 魯迅が晩年、清の政府や蒋介石軍閥から思想犯として追われ、日本人の内山完造の支援のもと隠れ住んでいたのが魯迅公園近くのアパートであり、病により生涯を閉じたのもここ魯迅公園近くでした。虹口公園が魯迅公園と改名され、その中に魯迅記念館や魯迅の墓が作られたのにも、こうした経緯があります。


 昼下がりの魯迅公園です。
 魯迅公園は広大な面積を持つ人々の憩いの場です。朝から夕方まで、こんな昼間であっても大変な賑わいです。南京路や准海路、新天地や田子坊あたりを歩いている人々と違って、ここ魯迅公園にいる人々は普段着の人々です。魯迅公園はそんな庶民の公園なのです。


 歌を歌っているグループがあったり、笛の独奏をしているおじさんがいたり、中国象棋やトランプに興じている人がいたりで、上海人の庶民の生活の一面を見ることができます。最も面白いのは朝で、ダンスや太極拳、バトミントンなどに興じる人々(年配者が多いのですが)が押し寄せます。日本語サークルのメンバーが魯迅公園に集まるのも、朝の時間です。

 

 このおじさんはベンチでひとりで自分の音楽の世界に深く入り込んでいます。なかなか上手です。

 
 

 こちらは、中国の朝の定番、太極拳です。きちんと太極拳用の服に着替えている人が多いのには驚きました。

 
 
 
  太極拳をされているのは年輩の方がほとんどです。若い人も時が経ちリタイアすると、こういう仲間に入っていくのでしょうか。魯迅公園の朝は、復興公園の朝と同様にエキサイティングです。


 魯迅公園を出て虹口(ホンキュー)の街を歩いてみます。
 自転車でドリアンを売りに来ているおじさんです。懐かしいですね、こういう風景。虹口(ホンキュー)の街を歩いていると、こんな昔の上海そのままの光景を目にします。未来都市のような上海ですが、むしろ私はこういう上海の街の方が好きです。



多倫路を歩く


 魯迅公園から多倫路に行く途中にある碑坊。この碑坊を越えると多倫路文化名人街です。多倫路文化名人街には、中華人民共和国の成立に大きな役割を果たした人たちの銅像がいくつもあって、中国人観光客も多いところです。ある意味観光地化されていますが、日本人街の面影もそれなりに残されています。


 上の写真の碑坊を越すとすぐにある建物。オールド上海の歴史を感じさせる洋風建築です。

 
 でも、この辺りはそうした洋風建築よりも、3階建てで1階が商店といういかにも中国らしい建物が続きます。庶民的な街ですが、店舗は地元の人たち向けばかりでなく、観光客向けの店もかなりあります。


 商店の中では、上の写真のような骨董品屋が多いようです。魯迅が終焉を迎えた場所でもあり、また、内山書店を中心に文人たちが集った場所でもあるだけに、いわゆる書画骨董系の店が多いような気がします。
 吉祥閣という店は、書画骨董の店です。店内に景徳鎮のような陶器も見えます。


 吉祥閣の隣の店は書画を中心にした店で木彫りも扱っているようです。
 こんな具合に、いわゆる中国らしい芸術品を扱っている店が多いのが、多倫路の特徴です。


 こちらは画廊です。
 いわゆる中国画のような作品ばかりでなく、中国の画家による洋画も置いています。中国の風景を描いた中国画は日本でもよく見るのですが、洋画は滅多に見られません。中国の風景や生活は洋画風に描いても、意外になどと言っては申し訳ないのですが、想像していた以上にしっくり合うのです。ぜひ、ご覧になってください。


 ここの骨董屋さんでは、ついつい毛沢東のポスターやオールド上海の絵に目が行ってしまいます。こういうのは、上海旅行の思い出になりますし、自分の部屋の装飾としても悪くないと思います。まあ、人それぞれ趣味がありますから、気に入ったら買ってみてください。


 そして、ハンコ屋さんです。私はこの店で聞いてはいませんけど、きっと日本の名前のハンコも作ってくれるはずです。
 

 こんな感じで、いわゆる中国らしい店が集中しているのが多倫路です。多倫路の商店街はせいぜい200mくらいの長さですから、中国文化に短時間で効率的に触れることができます。
 また、お店巡りで疲れたら、老舗の喫茶店や茶房もありますし、写真のような洋風のカフェもあります。



多倫路らしい風景


 多倫路は多倫路文化名人街とも言われています。多倫路の道端には、虹口にゆかりのある人々の銅像が幾つも置かれていますので、これも見逃さないようにしましょう。
 上の写真は若者たちに今後の中国のあり方を説く魯迅像です。魯迅は、この多倫路文化名人街の主人公的な存在です。


 この多倫路文化名人街では、魯迅と同じテーブルについて話をすることもできます(独り言になってしまいますが)し、本や新聞を読むこともできます。多倫路で歩き疲れたらカフェでなく、例えば魯迅と休憩することも出来るのです。
 私も魯迅と話をしたかったのですが、このお兄さんが1時間以上もここに座って読書していたので、ちょっと残念です。

 
 内山書店のオーナー、内山完造の像です。多倫路文化名人街に数ある像の中で、日本人の像はもちろんこの内山完造だけです。
 魯迅が晩年、清の政府から思想犯として追われ、日本人の内山完造の支援のもとに虹口に匿われていたことは既に書きました。内山完造は、中国にわたり最初は目薬の販売をしていましたが、その後内山書店を開き、日本人ばかりでなく中国人にも掛売りを行い、商売を広げました。その書店内には皆が自由に使えるテーブルがあり、内山書店の常連でもあった魯迅が毎日のように顔を出していたと言われています。当時の内山書店は、その魯迅を中心に郭沫若などの文人が集まるサロン的な存在だったようで、そうしたなかで内山完造は上海の中国人の間にも人脈を広げていました。


 内山完造が書店を開いていた時期というのは、日中戦争が始まる前から日中戦争終結時までですが、上海の中国人の多くは、内山完造に対しては他の日本人に向けられたような敵意を向けなかったといわれています。戦後、内山完造は失意のまま日本で暮らしていましたが、後日、日中友好協会の日本側代表として、田中角栄の時代の日中国交正常化の道筋を作りました。その相手方、中日友好協会の代表は、サロンにも顔を出していた郭沫若でした。
 上の写真は内山書店跡です。今は中国工商銀行になっています。左の方に内山書店跡という表示が見えます。(多倫路ではなく、山陰路と四川北路の交差点付近にあります。多倫路から歩いてすぐのところです。)この建物の二階に内山書店資料館という無料の展示会場があります。内山書店と魯迅故居についてはこちらのページで紹介しています。
 なお、内山完三については、伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)に詳しく描かれていますので参考にしてください。




 多倫路文化名人街の書店の店先にある本。ここでは、古典から現代文学まで文学作品が多く並べられていました。いくつか手にとって見て、私は漢詩の本を記念に買いました。


 この紳士は中国最大の共産作家といわれる茅盾です。中華人民共和国成立後、1949年から65年までの長きに亘り共産党の文化部長を務めていました。
 写真奥に見えるのは中国象棋の専門店です。


 道端で中国象棋に興じる人たち。
 天気の良い日にはこうした中国象棋の光景は通りのあちこちで見られます。


 中華民国、中華人民共和国の政治家であり文学者、詩人でもある郭沫若の像です。両側には地元の人が座っています。
 郭沫若は内山書店にもよく顔を出していた文学者、詩人で、日本の九州大学医学部を卒業し、中華人民共和国成立後は党の要職にあり、日中国交回復にも大いに貢献した人です。しかしながら、中国内で反右派闘争が強まると毛沢東に迎合した作風に転じるなど、少し日和見的な性格があり、それが郭沫若の評価を分ける原因となっています。
 なお、上述したとおり、後に中日友好協会の代表として、日中関係の改善に大きな役割を果たしました。


 この建物は中華風の建築ですが、鴻徳堂というれっきとしたキリスト教の教会です。清朝が「宗教土着化運動」をすすめるなかで、1928年に建てられた鴻徳堂は屋根の部分が中華風の建物にされたという経緯があります。十字架が見えなければ、教会だということが分からないですね。


 多倫路文化名人街で見かけた女性です。チャイナドレスが似合う人だったので、思わずシャッターを切ってしまいました。
 この人、誰なんでしょう。


 多倫路文化名人街の外れには、魯迅の小説「孔乙己(こんいーちー)」の舞台となった居酒屋、咸亨酒店もありました。小説「孔乙己(こんいーちー)」は、科挙(中国で官僚になるためには、このテストに合格する必要がある。)になかなか合格できない知識人、孔乙己が毎日酒を飲みに来たという設定になった場所です。
 中国語で「酒店」というと、一般的にホテルや食堂を意味しますが、小説「孔乙己(こんいーちー)」の時代設定では、咸亨酒店は酒を売る「酒屋」であり、酒屋の片隅に立ち飲み式のコーナーがあって、そこに人々が酒飲みに来ているわけです。
 建物前には、「孔乙己(こんいーちー)」の像も建っています。
 魯迅の故郷、紹興にある魯迅故居にも咸亨酒店があります。こちらは本場ですから、小説の設定通り、「酒屋」の咸亨酒店です。
 なお、内山書店と魯迅故居についてはこちらのページで紹介しています。虹口(ホンキュー)の街歩きの続きはこちらです。


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伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)

 大正から昭和初期の上海で、文化サロン的な役割を果たした伝説の「内山書店」のオーナー、内山完三の生涯に焦点を当て、日中関係の暗黒の時代のなかで育まれた両国文化人の交流を描いています。
 内山書店の常連客には魯迅や郭沫若などがいて、毎日のように内山完三と話をしていたのですが、一方、日本の文人も谷崎潤一郎や芥川龍之介などが上海での拠点として立ち寄り、日中の文人同士の交流も行われていた場所です。
 上海で人脈を広げた内山完三が、戦後、日中の国交回復に果たした役割は大きく、一庶民でありながら私欲のない生き方を貫いたことには頭が下がる思いです。中国とのビジネスをする人には、どんなハウツーものよりもこの本をおすすめします。この内山完三の生き方には、中国の人々と腹を割って付き合う方法のヒントが沢山詰まっているからです。

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