アジア写真帳アジア写真帳(中国)桃園結義の舞台、楼桑村桃園結義(桃園の誓い)の三義宮

桃園結義(桃園の誓い)の三義宮



(桃園結義の舞台、楼桑村)


 楼桑村は三国志の英雄、蜀の劉備玄徳が兵を起こす前に住んでいた楼桑村のあった地域で、また、関羽と張飛という生涯の仲間と兄弟の義を結んだ場所でもあります。劉備の家も大きな桑の木も、今の楼桑村には残っていませんし、劉備が関羽、張飛と義兄弟の誓いをした桃園も残っていません。
 写真は三義宮にある「桃園三結義(桃園の誓い)」の碑ですが、三義宮は劉備の家があった所からは少し離れていますので、三人が誓いをした桃園も、この場所だったわけではありません。
 しかしながら、ここからほぼ近いところで三人が誓いを立てたことには違いありません。時代は違いますが、この同じ空気を吸って、三国志の物語がスタートした場所かと思うと、やはり何か感じるところがあります。

 なお、涿州、楼桑村への行き方についてはこちらをご覧ください。


 三義宮の山門です。
 三義宮は、隋の時代に建てられた歴史的な建物で、以降、唐の時代から明・清の時代の修復を経て、忠義の心を語り継ぐ貴重な施設として広く知られていましたが、20世紀後半の文化大革命時に破壊しつくされてしまった経緯にあります。
 今の三義宮は1996年に涿州市旅行文化局によって再建されたもので、山門、馬神殿、関羽殿、張飛殿、正殿、退宮殿、武侯殿、少三義殿の各建物と、87の蜀将等の彫像を再現しています。


 山門がそのまま三義宮の入口になっています。
 係員の人たちが暇そうに、けだるそうに話しています。そうです。この日は広い駐車場がむなしく空いていましたし、お客さんも私たち以外には全くいませんでした。
 涿州市は北京から1時間強で確実にアクセスできるのですが、涿州市街から三義宮へのアクセスが悪すぎるからでしょうか。バスの便も少ないですし、貸し自転車で行ったら三十分以上かかりそうです。


  入口の山門で入場料20元を支払って三義宮に入ると、こんな風景が広がります。写真正面が馬神殿です。
 文化大革命時に一度破壊されてしまってますので、建物のほとんどは1990年代に建造された建物です。綺麗ではありますが、歴史を感じさせるものではありません。


 劉や張の字の書かれた旗がたなびく中を馬神殿に向かって歩きます。テーマパークみたいなものです。


 馬神殿には二頭の馬がいます。
 こちらは、劉備の愛馬である的蘆(てきろ)です。


 こちらは、呂布の愛馬だった赤兎馬(せきとば)です。後に、官渡の戦いで関羽が曹操軍の先鋒として働き顔良らを倒した功によって曹操から贈られた名馬です。
お尻の辺りを見ると、赤兎馬は的蘆より締まっていて、速そうな気がします。
 それから、馬と一緒にいるのは、赤兎馬の場合も的蘆の場合も、単なる馬子です。張飛に見えるかもしれませんが違います。馬子まで立派に造りすぎています。




 馬神殿を通り抜けると正殿です。美しい建物です。
 正殿という名が付いているので、この三義宮のハイライトともいえます。否が応でも期待が高まります。


 正殿には、正面に劉備を挟んで、関羽と張飛が鎮座し、向かって左側の壁に沿って武官系の将たちが、また、向かって右側の壁に沿って文官たちが屹立しています。


 正殿の中央に鎮座している劉備玄徳像です。高さ2メートル以上あって、天井まで届きそうな高さですから、かなり立派なものです。


 劉備の右手に鎮座する関羽です。
 漢寿亭侯関羽と表記されています。そう言えば、この寿亭侯という称号も、曹操が関羽を引き止めるために献帝に依頼したときに頂戴した称号でしたね。


 劉備の左側には、張飛が鎮座しています。
 劉備の両脇を関羽と張飛が固めている感じです。


 文官たちの彫像です。文官たちは劉備に向かって右側の壁に沿って立っています。
 前列は、左が羽扇を持っているので諸葛亮孔明だということは誰でも分かります。右側は誰でしょう。龐統です。文官系では、この二人が前列なのは分かる気がします。後列は、諸葛亮の左後ろが費褘、右へ伊籍と馬良です。馬良は白眉かと思いきや黒い眉でした。実は、後列はさらに左(上座)に二人、許靖と法正がいました。許靖は意外ですね。むしろ、麋竺がいてもいいのに、なんて思ってしまいます。
 ということで、文官系は7名です。


 一方、劉備に向かって左側は武官系が並んでいます。
 前列は2名。この二人は分かりやすくて、左が趙雲、右が黄忠です。
 後列は、左から、王平、廖化、魏延と並んでいます。


 後列の魏延と、さらに右側へ馬岱と姜維が並んでいます。馬超がいないのはどうしてでしょう。やはり、中国では三国志演義の中での評価でしょうけど、日本の場合は吉川英治や北方謙三の小説で読む人が殆どですから、武将の人気や評価も、日中間で違いがあるのでしょうね。




 正殿には道士みたいなおじさんがいて、中国語で話してきます。確か10元だったと思いますが、それを支払うと写真のように私たちの名前を書いた布を持って劉備様に祈ってくれます。結構長いこと祈ってくれまして、途中で布に書いた私たちの名前も読みながらの熱演です。私たちの名前を書いた布は、写真ではおじさんの右に見えるように、劉備様の像の周りにぶら下げられます。


 お祈りが終わると、道士みたいなおじさんは私たちを横のテーブルに連れて行きました。上の写真で見ると、龐統の前のテーブルです。
 てっきり占いか何かを始めるかと思ったのですが、「さらに一人100元支払えば、これから毎日自分が劉備様にお祈りをするので、事業成功・家庭平安間違いない。さらに100元を支払って毎日のお祈りをしてあげましょう。」などと中国語で言ってきます。勿論、お断りさせていただきましたが、こんなことを日本人に言ってくるところを見ると、こんなのに金を払う日本人が後を絶たないのでしょうね。


 正殿の左右には、関羽殿と張飛殿という建物があります。
 上の写真は関羽殿にある関羽像です。財神としても祀られていて、商売繁盛等のお祈りを財神である関羽に対して行うことができます。もちろん、有料です。
 関羽像の両側にも、「財」という字が見えますね。


 関羽殿にいる周倉、関平ら、関羽の直臣たち。
 前列左が周倉、真ん中が関平です。


 一方、こちらは張飛殿のなかの張飛像です。ここの張飛は穏やかな顔をしています。実は福の神として、家庭平安等を張飛にお祈りすることができるようになっています。
 関羽が財神になっているのは、中国どこでも共通で当たり前のことですが、張飛が福の神とはびっくりしました。


 張飛殿には、張飛が督郵(地方の巡視官)を懲らしめている像があります。張飛の性格を語る三国志の有名なエピソードです。こんな話です。
 黄巾の乱鎮圧での功が大きかった劉備には暫く恩賞がなく、やっともらえた役職も田舎の村の県尉(警察署長みたいなもの)という小さな役職でした。劉備はそれでも不平不満を言わずにその職を拝命し、任地へ赴き善政を行っていました。
 しかし、劉備の着任後しばらくして都からやってきた督郵は、劉備に賄賂をせがみました。これは当時の督郵(地方の巡視官)なら誰でもどこででも行っていたことなのですが、劉備は民が苦労して納めた税金を賄賂になど使えないと拒否し、怒った督郵が劉備の悪行をでっちあげ嘘の訴状を書かせたという事件が起こります。
 それを知った張飛が大激怒。督郵を捕まえて木に縛り吊るし上げ、柳の枝を鞭の代わりにして200回以上叩いて懲らしめました。張飛は酒を飲んでいたこともあって、徹底的に督郵を痛めつけてしまいました。張飛の失敗というのは、酒の上での失敗が多いのですが、これがその第一弾みたいなものです。
 督郵に刃向かったということは帝に背いたことになります。劉備は、やむなく任地を去り、流浪の旅に出かけることになったのです


 このページでは、三義宮について、山門から馬神殿を通って、正殿、関羽殿と張飛殿を紹介してきました。
 ページが重くなるので、三義宮の他の建物については、別のページで紹介します。

三国志の劉備の故郷、桃園結義の「楼桑村」
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(桃園結義の舞台、楼桑村)