マカオの林則徐記念館

マカオの林則徐記念館


林則徐について


 林則徐は清代末期の政治家で、腐敗がはびこっていた時代にあって、清廉潔白で常に国家のことを考え続けた生き様が後世の人間から深く尊敬されている政治家です。特に、アヘンの撲滅に取り組んだ政治家として知られ、欽差大臣に任命された直後の1839年に広州でイギリス商人の持つアヘンをすべて処分し、これが翌1840年から始まるアヘン戦争のきっかけになったことでよく知られています。アヘン戦争は清の弱さを欧米列国に示す結果となり、その後の欧米列強との不平等な条約締結など、中国にとって屈辱的な時代を招来する結果となったわけですが、そうしたなかで常に国家のことを考え進言し行動し続けた政治家が林則徐です。


 この林則徐記念館が建てられている蓮峰廟という寺院は、林則徐が1839年にマカオを訪れ、当時マカオを統治していたポルトガル政府の役人と交渉を行い、ポルトガルがイギリス側へ協力をしないよう申し入れ、ポルトガル側から了承を取りまとめた場所です。林則徐記念館の入口にある上の写真のレリーフは、そうした情景を示したものです。林則徐記念館がここ蓮峰廟の境内に建てられたのはそうした記念の場所だからなのです。



林則徐記念館


 林則徐記念館の中に入ってみましょう。記念館内には1839年のポルトガル役人との交渉の場面が再現されています。林則徐はこのとき、ポルトガルはイギリスへ手を貸さず中立でいることやアヘン禁輸への協力などを要請し、ポルトガルはその要請を受け入れる結果となりました。日本ではあまり知られていませんが、このように、ポルトガルと中国との関係というのは大変友好的で、イギリスと中国と比較すると対照的です。


 記念館の中にはいくつもの林則徐の書いた上申書が残っています。上の写真は清の皇帝宛ての上申書で、アヘン戦争中の度重なるイギリスとの交渉がうまく運ばず、その内容を報告するとともに自らの非を詫びる内容になっています。


 上の写真は林則徐の書です。波乱万丈の生涯を送った林則徐の様々な思いがこの書の中に込められているのでしょう。



 林則徐とアヘン戦争

 
 林則徐を語る時アヘン戦争の話を除外することはできません。この記念館内にもアヘン戦争当時の道具や絵などが数多く飾られています。ざっと見た印象としては、説明は淡々と書いてありますが、清朝の時代が中国にとっていかに悲惨であったかを示すような内容です。アヘン戦争があったからこそ中華民国が誕生し、その後の中華人民共和国へとつながってきた歴史ですから、アヘン戦争は暗愚な清の時代を象徴する出来事として描かれているようです。
 上の写真はアヘン戦争で清が奮戦したと言われる数少ない戦場であった広州・虎門が落とされた話を紹介している部分です。

 
 アヘン戦争の時代、中国は急いで軍艦を建造しないといけなかったため、林則徐はアメリカの商人からイギリスの大型商船を購入し、それにイギリス製の大砲を据え付け、中国で初めての外国製軍艦に仕立てたという話を紹介している図です。
 アヘン戦争で清が完敗した原因の一つに、海軍力の差がありました。近代化の遅れた当時の中国海軍はイギリス海軍に全く歯が立たなかったのです。


 アヘン戦争で清の敗色が濃厚になると林則徐は更迭され新疆に左遷されてしまいます。その後、林則徐に代わって両広総督に任命された満州人の琦善(キシャン)がイギリス海軍の強大さに恐れおののき、香港の割譲などによりアヘン戦争を終結させたのはよく知られた話です。
 このように一度は歴史の舞台から降ろされた林則徐ですが、太平天国の乱が拡大すると再び欽差大臣に任命され、それを引き受けました。この窮地を救えるのは林則徐以外にないという皇帝の判断も印象的ですが、左遷されてもなお国家のことを考え続けた生き様が構成の中国人に慕われ続けている理由なのです。