三顧の礼の舞台
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古隆中の牌坊から諸葛亮の庵をめざす |
![]() 諸葛亮の庵があった襄陽市の古隆中 |
古隆中。襄陽の街の郊外にある集落で、三顧の礼で劉備が諸葛亮を三度訪ねて諸葛亮を配下に加えたという逸話が行われた場所です。写真は古隆中の入り口に建てられた牌坊(寺院、祠堂や街の入り口に建てられるアーチ形の門)です。古隆中は、この牌坊をくぐって山の中へ進んでいったところにあります。 この牌坊までは、襄陽市内からバスで30分前後で行けますが、バスは乗り越したりすると戻るバスが来なかったり苦労するでしょうから、慣れてない方はネットで滴滴などを手配して行った方が無難です。 |
![]() 古隆中の牌坊から諸葛亮の庵への道 |
| 牌坊がある辺りまでは平地なのですが、牌坊をくぐるとすぐに上り路になります。途中に民家などはありません。隆中路と書いてありますが、これは前からあった道ではなく、観光用に作って名づけた道でしょう。 |
![]() 古隆中の牌坊から諸葛亮の庵への道 |
でも、山の中に入っていく道は、諸葛亮が晴耕雨読の暮らしをしていた隆中らしさを何となく演出してくれます。諸葛亮の庵は意外に山深い場所にあるのです。 |
![]() 隆中書院 |
隆中の諸葛亮の庵に向かう道沿いにある隆中書院。これも諸葛亮が生活していた頃にはなかったもので、諸葛亮の功績を讃えて近年建てられた建物だと思います。諸葛亮にかかわる当時の資料などが展示されていました。 |
![]() 隆中書院 |
隆中書院の建物付近に立つ諸葛孔明像(だと思われます。)羽扇を持っているから諸葛孔明像だろうと勝手に私が想像していますが、顔がふっくらしていて私の持っている諸葛亮のイメージとはちょっと異なります。 とにかく、先ほどの山に登る道をひたすら歩いて、諸葛亮の古隆中の庵を目指し歩いていきます。 |
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古隆中の諸葛亮の庵 |
![]() 草蘆らしさがある古隆中、諸葛亮の庵 |
三顧の礼というのは日本語の言い方です。中国語では三顧草蘆と言いますが、劉備が当時諸葛亮が居住していた茅葺の家を三回訪ね、礼を尽くして配下になるようお願いしたという話から、中国では「三顧」の後に「草蘆」という語が続けられます。 この入口の門は草蘆っぽさがあって、当時のそんな諸葛亮の庵を彷彿とさせてくれます。 |
![]() 諸葛孔明像(古隆中、諸葛亮の庵) |
諸葛亮の像。この庵にある諸葛亮の像はすべて、この細面(ほそおもて)の像です。恐らく中国では、三国時代の英雄として世に出る前に、古隆中で力を蓄えていた時の諸葛亮はこのような細身、細面の青年だったとされているのでしょう。 |
![]() 古隆中、諸葛亮の庵にある諸葛孔明像 |
| 机に向かって書をしたためている諸葛孔明。質素な家具で質素な服、今で言えば学生時代の諸葛孔明像ということができます。迫力はないけど、聡明そうで誠実そうな諸葛孔明のイメージが、この像から伝わってきます。 |
![]() 三顧の礼(古隆中、諸葛亮の庵) |
上の写真は三顧の礼で訪ねてきた劉備との対談の様子です。古隆中で劉備を迎えた諸葛亮は20代の青年だったとされています。対する劉備は40代。自分の周りに軍師として戦略を寝れる人材が欲しい劉備が、徐庶の紹介を受けて諸葛亮を訪ねたのが三顧の礼です。最初二回の訪問では諸葛亮が留守で、三回目の訪問でようやく対面できたという話になっています。 テーブルの向こうには中国の地図が掲げてあります。この対談で、諸葛亮は劉備に天下三分の計を説いたのは有名な話です。 |
![]() 三顧の礼(古隆中、諸葛亮の庵) |
三顧の礼の1回目、2回目の訪問では留守番の子供や諸葛亮の弟(諸葛均)が諸葛亮が留守であることを告げるのですが、このくだりは三国志の正史では明記されていません。単に留守だったとされています。留守番の子供や諸葛均は、小説の中での説明で、作品によって描かれる情景が異なっています。 ここ古隆中の展示では、三回目の訪問時には子供(小姓)がいたことが示されています。1回目、2回目の訪問では小姓説が有力そうですね、 |
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古隆中の展示は興味深い |
![]() 劉備と諸葛亮の面談を待つ関羽と張飛(襄陽・古隆中) |
| 三顧の礼では、遠い古隆中まで何度も行くことに張飛がたびたび不満を漏らしていましたが、ここ古隆中でも待ち時間に不満そうに関羽に話しかける張飛の像があります。よくできています。 当時劉備たちが居住していたのは新野という地域で、襄陽から直線距離で60KMくらいです。古隆中は襄陽の中心から10KMくらいですから、道のりだと片道80-90KMくらいの行程です。馬を速足で移動させると時速12kmと言われていますから、移動時間だけでも片道5-6時間は要していたのでしょうか。張飛が文句を言うのも分からないでもないです、 |
![]() 劉備と諸葛亮の面談を待つ関羽と張飛(襄陽・古隆中) |
| 庵の周りには三頭の馬が繋がれています。三国演義に忠実に作られた観光地です(笑) |
![]() 諸葛亮の草蘆亭(襄陽・古隆中) |
| 庵の近くの高台にある草蘆亭。もちろん当時はこんな立派な建物ではなかったでしょうが、屋外で書を読んだりできる亭(東屋)があったとされているようです。 |
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![]() 三顧堂(襄陽・古隆中) |
| 庵の隣には三顧堂という建物があって、ここには様々な展示物があります。 |
![]() 三顧堂にある木牛流馬(襄陽・古隆中) |
| 三顧堂に展示されている木牛流馬。木牛流馬は長期戦で兵糧不足が原因で苦戦したことから、兵糧輸送を効率を上げるために諸葛孔明が考案・発明した道具と言われています。 では、どういう仕組みだったのでしょうか。展示物は最も大事な物が抜けているのですが、荷台の下に車をつけて荷台を押すことで、大量の食糧を運ぶように工夫されていたとされていて、十人の人夫が運ぶ量を一人で運べるようになったとされています。恐らく木牛では嵩の多い食料を運び、流馬では木牛より早く運べるように大きさや車が工夫されていた道具だと推測されています。 ここの木牛はまるで埴輪のようです。これでは運搬に使えません。 |
![]() 三顧堂にある諸葛連弩(襄陽・古隆中) |
三顧堂にある諸葛孔明の連弩。諸葛連弩という名で展示されています。普通の弓では、弦を引き、矢をつがえ、矢を打つという動作を繰り返します。これを両手で行いますから、弓を放つ間隔はどうしても長くなり、弓隊を二列に配置し、矢を放ったら後列に下がり、そこで弓をセットし、もう一隊が矢を放った後に前列に出るという隊形になります。 連弩は矢をつがえ、矢を打つという動作を片手で行えるように工夫した武器で、一列の隊形で矢を次々と放つことができるように設計されたものです。また、それをさらに進化させ、同時に複数の矢を放てる連弩もあったとされています。 |
![]() 司馬徽の指導風景(襄陽・古隆中) |
三顧堂に貼ってあった司馬徽(しばき)による子弟への指導風景の図です。 司馬徽は諸葛亮の師であり、襄陽で数多くの青年を指導していました。司馬徽の子弟には、劉備にとって最初の軍師だった徐庶、諸葛孔明と龐統がいます。 最初に諸葛孔明を劉備に推薦したのは徐庶ですが、その言の後、劉備が司馬徽と会った際に「臥龍と鳳雛のどちらかを得れば天下を取れる」という司馬徽の推薦があったからとされています。ここで臥龍とは諸葛亮を、鳳雛とは龐統を意味しています。劉備はこの司馬徽の推薦を受けて、三顧の礼に至ったわけです。 新野でくすぶっていた劉備を一気に三国志の表舞台に押し上げた司馬徽の一言は、大変大きな意味を持っていました。なお、司馬徽は水鏡先生という名でも知られています。 |
![]() 三顧堂にある劉備像(襄陽・古隆中) |
三顧堂にある劉備像。円満そうで慈愛に満ちた表情です。 |
![]() 三顧堂にある関羽像(襄陽・古隆中) |
三顧堂にある関羽像。関羽は一騎当千の武将として知られていますが、死後、神様として中国各地で祀られています。私は中国のあちこちで関羽像を見ていますが、どこでも良い表情をしています。ここでも強靭な体力が感じられるとともに、思慮深い表情をしています。 |
![]() 三顧堂にある張飛像(襄陽・古隆中) |
三顧堂にある張飛像。少し粗暴な性格を持つ張飛ですが、兄として尊敬する劉備や関羽にしたがって、戦闘場面では勇敢に戦い、劉備の危機を幾度となく救った英雄です。この像も勇猛な性格がよく表現されています。 |
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三顧堂で展示を見ていると、昔読んだ三国志の情景がいろいろと思い出されてきます。 ずっと昔には間違いなく諸葛孔明もこの地で暮らしていました。人里離れたすごい山奥で英気を養っていたと思うと、臥龍(眠っている龍)と言われた当時の諸葛亮がすごく身近な存在に思えてきました。 |
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