鎮江・北固山にある三国志の遺跡|アジア写真帳(揚州・鎮江)

(2015年4月5日以来)

鎮江・北固山にある三国志の遺跡YANGZHOU


 北固山は、鎮江駅からタクシーで10分足らずの場所にある公園で、三国志の歴史の跡、特に呉の国の歴史の跡を辿ることができる貴重なスポットです。鎮江駅から、北固山公園もしくは甘露寺と言えば(漢字で書けば可)、間違いなくたどり着けます。
 鎮江の北固山にある三国志に関する見所は、次の通りです。
  1.劉備と孫権がそれぞれ願をかけて斬ったとされる試剣石
  2.魯粛の墓
  3.太史慈の墓
  4.劉備と孫権の妹である尚香がお見合いをした甘露寺
  5.お見合いに来た劉備を周愉が殺そうとした廊下
  6.劉備の死後、孫尚香が身を投げたとされる祭江亭
 このうち、4~6は北固山にある甘露寺の境内にありますので、「甘露寺」の紹介ページに記載してあります。
 なお、鎮江までの交通はこちらをご覧ください。


 北固山公園の入口を入るとすぐにある孫権と劉備の像です。この像のすぐ近くに試剣石があります。孫権と劉備がそれぞれ願をかけて斬ったとされる石です。
 三国志演義では、劉備と孫権がそれぞれ表向きには「曹操を破る」との願いから池の中の石を斬ったが、実は腹の中では、劉備は「もし荆州に戻ることができ、王覇之業が成るならこの石が斬れよ」と心の中で願ったとされ、孫権は心のうちに「荆州を取り戻し、呉がさらに繁栄するならこの石が斬れよ」と思いながら剣を振ったとされています。二人の剣はそれぞれ巨石を斬ったのですが、その後その願いは一時的にせよ叶ったわけで、もし、二人が曹操を滅ぼしたいとの願いをかけたならば、甘露寺のご利益で三国志の歴史は変わったかも知れませんね。


 試剣石です。
 こんな大きな石が斬れるはずもないですね。三国志演義というのは、その演出が面白いですね。どこまでがフィクションでどこが史実なのかは別として、うわべでは曹操打倒のために同盟している劉備と孫権が、実は腹の中では全く逆のことを願っているわけです。そういった人間の心の描写が三国志演義の面白いところです。それを試剣石などというありもしない話を作り上げて強調しているのですね。




 呉の重臣、魯粛の墓です。
 魯粛は、孫権の重臣として、特に赤壁の戦い前後で、孫権と劉備の同盟関係の構築に大きな役割を果たしています。三国志演義の中では、劉備や諸葛亮らに対して常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにしていたためか、時として諸葛亮の言に乗せられて孫権の利に反するかのような間抜けな対応をしている描写もありますが、私が思うに魯粛は自分の信念を貫いただけだと思います。魯粛の基本的な考え方として、曹操を破るためには呉の力だけでは不足しており他勢力の力も借りなければ実現し得ないということがあって、同盟すべきその他勢力の一番候補として劉備軍を考えていたということです。赤壁の戦いやそれ以降の三国の歴史を考えれば、もし、呉が周愉のように呉固有の力で曹操を破るという考え方や張昭のようにひとまず曹操の風下に立とうという考え方で、呉という国の経営をしたならば、呉の滅亡はもっと早かったに違いありません。
 魯粛は柔軟性に富んだ沈着冷静な戦略家であったと私は思います。

 

 太史慈は呉の武将で、弓の名人だったと言われています。劉繇に仕えていた時に、劉繇軍の大将として孫策軍と戦い、敗れた後に孫策軍に組み入れられ、各地で活躍をした武将です。魯粛の墓は全国各地にあるので、ここ鎮江が本物とはいえませんが、太史慈の墓はどうやら、この鎮江北固山の墓が本物のようです。


 三国志演義や日本の小説の中では、太史慈は赤壁の戦いにも参加し、その後、曹操軍の張遼との戦いで、全身に矢を射立てられて戦死する話になっていますが、正しくは赤壁の戦いの前年に病死していたようです。それだけ勇猛な将軍だったということです。

 


 北固山公園は北固山の上の甘露寺を含む広い公園です。
 試剣石を見て、魯粛と太史慈のお墓参りをしたら、いよいよ北固山に登り、甘露寺を目指します。


 北固山の山の上の小道です。北固山は高さ50mほどの山ですので、登るのは全く苦になりません。山の上は木が生い茂っていて涼しいですね。

 北小山から見た鎮江市です。右側が長江で、鎮江市に沿って横たわっています。建設中のビルがあちこちに見られていますが、中国の新幹線、和諧号が停車することもあって、鎮江市の発展はこれからまだまだ続くものと思われます。


 甘露寺の入口近くにある鉄塔です。北宋時代に伝統的な石塔を鉄製で作ったものだそうで、もともとは9層の鉄塔だったのが、今は破損して4層になってしまってます。確かに、9層あれば、石塔らしく見えますね。
 それでも、鉄の貫禄があって、なかなか風格があります。


 鉄塔近くにある阿倍仲麻呂の碑です。阿倍仲麻呂の歌として有名な「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」 が刻まれています。阿倍仲麻呂は19歳で遣唐使として唐に入国し、その後、科挙に合格しています。唐の役人としてベトナムのハノイを含め、中国各地に赴任し、72歳で亡くなるまで、とうとう日本の地を踏めなかったようです。
 百人一首にも選ばれたこの阿部仲麻呂の歌が鎮江で詠まれたのかどうかは私は知りません。また、そもそも何故ここに安倍仲麻呂の碑があることかも、よく分からないくらいですから。
 邪推ですが、鎮江は長江と京杭大運河が交差する交通の要衝ですから、少なくとも阿倍仲麻呂はここ鎮江には来たことはあるかも知れません。また、日本へ帰ろうとして帰国の船に乗ったとき(このときは船が難破してベトナムに漂着しました。)も、鎮江の隣町、揚州から乗船したという話ですので、その際に鎮江に寄ったのかも知れません。


 さて、鉄塔や阿倍仲麻呂の碑まで来ると、いよいよ甘露寺の入口です。
 上の写真は、甘露寺で劉備と趙雲が孫権に面会したところの絵です。ページが重くなるので、劉備と孫尚香との見合いの場所、甘露寺の紹介は次のページにあります。


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