痩西湖の五亭橋|アジア写真帳(揚州)

(2015年4月5日以来)

痩西湖の五亭橋-アジア写真帳(揚州)YANGZHOU

 痩西湖の五亭橋


 揚州と言えば、まず思い浮かぶのが痩西湖です。しかも、中国に詳しい人なら、痩西湖の五亭橋と言うに違いありません。中国人なら、誰もが知っていると言っても過言ではない揚州、痩西湖、そして五亭橋ですが、日本人にはどれも馴染みがあるわけではありません。
 しかしながら、揚州や痩西湖という名前は知らない日本人でも、上の五亭橋の写真は見たことがあるかも知れません。かく言う私も、痩西湖に行きたいという気持ちはここ10年間以上あったのですが、なかなか機会に恵まれず、今回が初めての揚州への旅行となりました。
 揚州は、上海から新幹線で1時間半ほど新幹線(和諧号)に乗ったところにある鎮江から、バスでさらに1時間ほど乗ったところにあります。長江(揚子江)と京杭運河(隋の時代からあります。)が交差する交通の要衝として、中国の歴史上、常に重要な役割を担ってきた街でもあります。 
 そんな揚州随一の観光地、痩西湖。このページでは五亭橋とその周辺を中心に紹介します。


 痩西湖には沢山の出入口があります。とにかく痩西湖の風景区(入場料90元:2011年5月現在)は外周を歩くだけで3時間以上かかってしまうくらいの広さですから、出入口も沢山あるのです。今回、私が宿泊した揚州雲天格蘭大酒店は痩西湖の東門から徒歩3分程度に位置していたので、東門から入場です。
 痩西湖には清の乾隆帝がたびたび南巡した際に立ち寄った言われていますが、乾隆帝の宿泊は今の冶春花園の近くだったようですから、正門から入り、長堤春柳、徐園と歩き、小金山を通って五亭橋へと歩いていたのだろうと思います。或いはそれに添って流れる川を舟で進んだに違いありません。ですから、普通はそのルートで行くと見所が多くて良いのですが、宿泊しているホテルの近くにせっかく東門があるので東門から入場です。この東門からですと、正門から入るより五亭橋は近いので、痩西湖で一番の見所、五亭橋へと急ぎます。


 門をくぐると早速痩西湖らしい景色が目に飛び込んできます。
 もともとは蛇行していた川を改造して湖のようにしたのが痩西湖で、乾隆帝が杭州の西湖を気に入っていたため、杭州の西湖に似せて造ったとも言われています。ただ、杭州の西湖よりも細長いので痩せた西湖ということで「痩西湖」と名づけられたとされています。遊覧船や石造りの太鼓橋などに杭洲の西湖の雰囲気を、いや失礼、痩西湖の雰囲気を感じさせます。
 奥に見える橋は「二十四橋」といいます。橋は長さ24メートルで、幅2.4メートル、橋の両側にある階段はそれぞれ24段、橋の上には24本の白玉の手すりが24枚の石板を囲んでいます。「二十四橋」の名前の謂れがどの「24」なのかは諸説まちまちだそうです。

 

 杭州の西湖と揚州の痩西湖の違いというのは、一つに細長いか細長くないかということですが、第二に周りに山が見えるか見えないかということです。杭州の西湖の場合は周囲の半分くらいが程よい高さの山に囲まれていて、その山々がかえって湖の広さを感じさせてくれます。
 私にとっては初めての痩西湖ですが、痩西湖の場合は山がない代わりに深い森に囲まれていて、これはこれで落ち着いた奥行きのある風景を見せてくれています。


 東門から五亭橋に行く途中にはこういった回廊もあります。特に夏になると揚州は陽射しが強く暑いので、こうした回廊が大変助かります。勿論、この回廊からも柳の木越しに痩西湖を見ることができるようになっています。


 道端に咲いていた芍薬の花です。痩西湖では、「二十四橋景区」に300種類以上の芍薬の花が植えられ、観光客の目を楽しませてくれます。芍薬はその根がよく漢方薬に使われていますが、もともと中国が原産の花です。
 芍薬は牡丹の花に似ていますが、牡丹が木に咲く花なのに対して、芍薬は草に咲く花です。赤や白、ピンクの芍薬の大きな花がこの辺りには咲き乱れています。


 二十四橋を起点に痩西湖の姿や芍薬の花に見とれながら歩いているうちに、目的の五亭橋が姿を現しました。




 五亭橋に登る


 いよいよ五亭橋が近づいてきました。
 痩西湖は揚州のシンボルですが、五亭橋は痩西湖のシンボルであり、それはすなわち、揚州市の象徴でもあると言えます。五亭橋は清の乾隆帝の南巡にあわせ建てられたもので、すでに二百年以上の歴史があります。
 乾隆帝の時代は康熙帝や雍正帝の時代から続く清の絶頂時代で、国土は拡大し国も富んでいました。そのため減税が実施されるとともに文化事業も盛んで、乾隆帝自身も詩を好み、六度にわたる南巡(中国江南地域への行幸)の間も、各地で詩を詠んでいます。
 そうした詩作は、例えば紹興の蘭亭(唐代の書家、王羲之が代表作「蘭亭序」を記した所。)であったり、蘇州の滄浪亭(蘇州で最も歴史のある庭園)であったりしますが、やはり杭州の西湖のような風光明媚なところが好まれていたようです。
 清の乾隆時代には、既に揚州の塩商人は清の皇室との関係を強化し中国の塩の流通を一手に握っており、その権益を守るために、乾隆帝の南巡時には揚州も訪問してもらわなければならない事情があり、詩作が好きな乾隆帝のために痩西湖を、そして、五亭橋や後述する白塔を造り上げた経緯にあるのです。


 そんな歴史を知ってか知らずか、若者たちも意外に多いのが揚州の痩西湖です。ファッションセンスからすると、揚州の子というよりも中国の他の地域、恐らくは蘇州や上海辺りから来たのではないかという感じです。
 もっとも痩西湖というのは中国のAAAAA級(5A級)観光地に指定されています。AAAAA級(5A級)観光地というのは中国で最高ランクの観光地格付けで、すべてが世界自然遺産か世界文化遺産に指定された観光地です。中国全土でも70箇所程度だと聞いています。そういう意味で、痩西湖は中国きっての観光地の一つであり、若者を含め中国人が大勢旅行に来るのも当然といえます。


 どんどん五亭橋が近づきます。この付近まで来ると、五亭橋の土台がかなり強固な石造りであることが分かります。大きく頑丈な石の土台の上に、木造の五つの亭が乗っている様子がよく分かります。
 また、乾隆帝の話に戻りましょう。清の時代というのは、満州族による漢民族統治の時代です。もちろん、乾隆帝も満州族の出身です。満州族による漢民族統治の象徴は辮髪(頭髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らした男性の髪型。清の時代は、男性が辮髪しないと逮捕された。)で、辮髪にすることにより満州族への服従を表していたものでした。一方、皇帝の方は、詩作をしたり、庭園を巡ったり、書を集めたりしながら、漢民族の文化を尊重する姿勢を見せていました。その最たる皇帝が乾隆帝で、漢民族の歴史と文化を尊重し、融和を図っていたのでした。南巡は、そうした民族融和の象徴で、特に豊かな江南エリアを巡ることにより、安定した体制の構築を図っていたものと考えて良いと思います。そうしたなかで、乾隆帝が漢文化に強い興味を持ったことも、南巡の回数を重ねた一因であることも間違いのない説と思います。


 そんな漢民族と満州族の融和などにも思いを致しながら歩いていると、いよいよ五亭橋に登る階段の手前に出ました。ここから仰ぐ五亭橋も立派です。
 五亭橋を正面から見ると確かに五つの亭が建てられている場所は大きな石の台の上になっていて、橋には登る階段が必要だとは思っていましたが、こんなにも大きくて広い階段があるとは思ってもいませんでした。なかなかの迫力です。




 五つの亭は橋の両側に二つの亭が並び、中央に少し高い屋根の亭があって、それらを廊下のような建物がつないでいるという構造です。上の写真はその廊下の部分です。亭にも廊下にも浅い腰掛けがあって、腰掛けに腰を下ろしながら五亭橋からの眺めを楽しむことができるようになっています。


 私は五月のゴールデンウィークに行ったのですが、この時期は中国においても労働節(メーデーから始まる中国版のゴールデンウィーク)で、旅行シーズンです。それでも、五亭橋は一日中混雑しているかというとそうでもなくて、上の写真のようにふっと旅行客が姿を消すこともあります。ですから、一つ上の写真のように込んでいたとしても、ちょっと待ってまた来れば、こんな風にゆったりと五亭橋を楽しむことができるのです。


 でも、また、こんな風に込んできてしまいます。団体客、しかも二十人とか三十人とかのツアー客が多いようなので、一気に込んで一気に空いてまた込んでくるという繰り返しです。五亭橋の上には百人以上座れる腰掛けがありますから、席が空くのを気長に待ちましょう。




 五亭橋から見る小金山方面の風景です。黄土色の建物に丸い門が付いている建物が釣魚台です。釣魚台は、五亭橋を見る最高の場所といわれています。
 釣魚台は乾隆帝が揚州行幸の際に釣り糸を垂れて楽しんだ場所だとされています。この五亭橋は乾隆帝の六回目(ということは最終の)南巡にあわせて建造されたものですので、むしろ、乾隆帝が釣り糸を垂れる場所から最も美しく見える場所に五亭橋を造ったという方が正しいと思います。乾隆帝も釣魚台からの景色を大変気に入っていたそうです。


 釣魚台です。川の流れがこの辺で合流していますので、魚が釣れやすいのでしょう。まあ、私の勝手な想像ですが、揚州の商売上手な塩商人たちのことですから、乾隆帝が釣りをする時には上流に魚を放流するなりして、さらに釣れやすいような仕掛けをしたに違いありません。
 この釣魚台の建物の丸い門越しに見ると、五亭橋が三亭橋のように見えます。すなわち、橋の両側に二棟縦に並べて建てられている亭が重なり、あたかも三亭のように見えるのです。凄い設計思想です。そして、この釣魚台からは、五亭橋の横に白塔(北京の北海公園に建てられていた白い塔を真似て建てられたもの)も見えるのです。乾隆帝が気に入った魚釣りの場所を、、痩西湖の絶景ポイントにしてしまうというまさに空前絶後の大接待、大ゴマすりを、揚州の塩商人や塩役人たちはしたわけです。
 この日、私は東門から入っていますので、二十四橋、五亭橋、釣魚台の順に観光することになってしまいます。本当は乾隆帝になったつもりで、釣魚台から「三亭橋」を見て「五亭橋」に行く方が、塩商人の仕掛けが楽しめて旅行者としては良いと思います。


 五亭橋から見る鳧荘(ふそう)です。五亭橋の目の前の水上に建てられた宴会をするための建物です。鳧荘(ふそう)から見る五亭橋も大変な迫力です。鳬荘は1921年に建てられたものですから、乾隆帝(1735~1795)の時代は既に終わっています。
 鳬庄という名前はその形が水面に浮かぶ鴨に似ていることに由来しています。特に、釣魚台に立つと、鳬庄が水面の一部に浮かんでいることによって、五亭橋と白塔とが一層引き立つようになりました。鳬庄は痩西湖の景観には欠かせない建物だと思います。


 最後に五亭橋の風鈴の話をしましょう。
 上の写真を見ると、反りあがった庇(庇)の下に大きな風鈴のようなものがいくつも見えるでしょうか。実は、五亭橋に登るとカラン、カランと鐘の音が不規則に聞こえるのですが、これが風鈴です。


 拡大すると、風鈴といってもチャチなものではなくまさに鐘がぶら下がっている感じです。風鈴というのは中国から日本に伝わったもので、かつて唐の時代から皇帝が占い(お告げ)をする際に使用したものです。これなども、さきほど説明した清朝の皇族(満州族)の漢民族文化への理解の一つなのですが、風鈴を皇帝のこうした行幸先に設置することにより、漢民族の安定的な支配に役立てようとする背景があるのです。


 風鈴も立派ですが瓦も立派です。
 五亭橋は土台も立派ですし、建物も美しいです。しかも五亭橋と白塔を皇帝お気に入りの場所に建てたのですが、乾隆帝の南巡はこの大仕掛けを作った6回目が最後になってしまいました。塩商人としては残念ではあったでしょうが、これだけのことをしたのですから、建造費など楽に捻出できるくらい、相当の便宜を図ってもらったに違いありません。


 五亭橋の橋の下から五亭橋越しに白塔を見たところです。次は白塔に向かってみましょう。