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アジア写真帳(紹興)-柯岩風景区(鏡水湾と烏篷舟)


アジア写真帳(紹興)


 「柯岩景区」の鏡水湾です。
 柯岩風景区に行っても、雲骨を見るだけだと思っていた私にとっては、この鏡水湾の風景は驚きでした。1995年の開園に当たって、相当整備したんでしょうが、本当に綺麗な公園です。写真を見ると、対岸に大勢の観光客が歩いているのを見ることができます。


 烏篷舟(うーぱんちゅえん)です。
 小舟に、雨よけのかまぼこ型の屋根がついています。この屋根が黒く塗られていることから「烏」篷舟と名づけられています。雨が降っていない日は、このように屋根を空けています。この舟は手漕ぎではなく、足でも漕いでいます。写真の船頭さんを見てもらうと、何となく足で漕いでいるのが分かると思います。
 この烏篷舟は、運河の街、紹興のシンボルの一つと言えるでしょう。


 鏡水湾の中央には戯台(舞台)があります。労働節(メーデー)に続く連休だったため、この日はお客さんも多く、戯台では中国の民族音楽が歌われていました。烏篷舟と池に浮かぶ舞台、なかなか洒落た風景です。戯台は、一番上の写真にある橋の前くらいに浮かんでいます。


 戯台を見ると、こんな感じで中国の民族楽器に合わせて、女性の方が歌っていました。ひょっとすると、越の音楽かもしれません。
 紹興と言う場所は、昔は会稽(日本語読みだと「かいけい」)と言われていましたが、この会稽が歴史に出てくるのは、夏王朝の始祖である(う)が亡くなった場所として史記に記された時に始まりますので、これは紀元前2070年くらいです。禹がなくなったときに、諸侯が集まったことから、会稽と名づけられたものです。
 その後、春秋時代、会稽は越国の首都として栄えたとされていますが、これも、紀元前770年から紀元前408年ですから、気の遠くなるほど昔の話です。また、項羽と劉邦で知られる項羽が、叔父の項梁と隠れ住んでいたのも会稽で、秦討伐の軍を旗揚げした場所でもあります。これが紀元前210年くらいだったでしょうか。
 会稽が紹興と名前を変えるのは、南宋の時代の1131年、元号だと紹興元年ですが、会稽にこの地域を治めるための府が設置されたことを契機に、元号をとって、「紹興」と名づけられ、以来、現在の紹興市に至っているわけです。
 このように、紹興市は越の国の中心であったため、独特の文化が育まれていて、音楽も同様なのではないか、などと紹興市の歴史を振り返りながら考えたわけです。



 
 鏡水湾を過ぎると、今度は「越中名士苑」という紹興出身の著名人の石像が並ぶ公園になります。禹、句践、王羲之、陆游、徐渭、秋瑾、周恩来、鲁迅などの石像があるわけです。



 この石像は、書で有名な王羲之が第七子の王献之に教えているところです。王羲之は「書聖」と称され、書道史上最も優れた書家とされています。王献之とあわせて、二王(義之が大王、献之が小王)と呼ばれることもあります。



 さて、これは誰かな?
 ちょうどその時、私のそばにいた中国人の子供が、お父さんに「これ誰なの?」と質問していたので、耳を澄まして答えを聞いたら「孔乙己(こんいーちー)」だと答えていましたが、ここは実在した名士の石像があるわけで、そんな小説の主人公は石像にしないだろうし、服は似ているけど顔は似てないから孔乙己とは違うだろう、と思っていたら、案の定、違いました。
 任伯年という19世紀の書家でした。時代としては、孔乙己の時代ですね。



 これは、石像ではなく、「我是紹興人(私は紹興人です)」という周恩来の字です。なかなか達筆ですね。


 ここでは、売店や食堂が意外に少なくて、ようやく見つけたところが、ここです。岩山を繰り抜いたトンネルみたいなところです。この日は5月とはいえ、陽射しの強い日だったので、涼むのに都合の良い場所でもありました。


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