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アジア写真帳(紹興):越王殿


アジア写真帳(紹興)

越王殿とは


 紹興の歴史を語るとき、外せないのが、春秋時代の呉越戦争です。
 呉越戦争は、中国の「史記」で有名ですが、復讐の歴史としてみると、流れが良く理解できます。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」や「会稽の恥(かいけいのはじ)」といった有名な熟語が生まれた呉越戦争の流れを絵で見せてくれているのが、紹興にある「越王殿」です。
  (「会稽」は「越」の国の都で、紹興の昔の名前です。)
 越王殿は、府山公園の一角にあって、入口は府山横街の先にあります。
 写真は越王台といって「越王殿」に入る門みたいなものですが、入場料は、この越王台と越王殿の通し切符で8元でした。(2008年7月)


 越王台から越王殿までは、歩いてすぐです。山の中腹に越王殿はあります。
 越王殿という建物は、その名の通り、越王の宮殿です。その割には随分と質素に見えるかもしれませんが、それはそのはず、越王殿というのは越の国が呉に敗れ、呉の属国であった時代に建てられた宮殿で、宮殿というにはとても質素な建物なのです。
 2011年にチャンネル銀河で放送された「燃ゆる呉越〜越王 勾践〜」おいても、この越王殿がよく出てくるのですが、この紹興の越王殿に実によく似ています。「燃ゆる呉越〜越王 勾践〜」は、2012年4月から再放送が始まります。中国の大河ドラマファンの方はお見逃しないように。)



呉越戦争のポイント

 越王殿に行くまでに、呉越戦争のポイントを整理しておきましょう。
 まず、登場人物として、呉越の王です。
越王 勾践(こうせん) 紀元前496年即位~紀元前465年退位
(但し、紀元前494年から491年は呉の支配下)
呉王

闔廬(こうりょ)

呉の第5代王 紀元前496年に呉越戦争で戦死
夫差(ふさ) 呉の第6代王 紀元前473年に自決

 次に、呉越戦争のポイントを時系列で見てみます。 
紀元前
496年
呉王闔廬(こうりょ)が、越との戦いで受けた傷がもとで死亡。
その際の「父を殺したのは越王勾践であることを忘れず、必ず越を滅ぼし、父の恨みをはらせ」との遺言を受け、夫差は3年以内に越を討つことを決意。
以降、夫差は薪の上で寝て(臥薪)、父の恨みを忘れないようにした。
494年 夫差は越王勾践を戦争で破り、会稽(かいけい)で降伏させる。
この際、勾践は范蠡(はんれい)の進言に従って、自らは夫差の臣下になるという屈辱的な条件によって、呉王夫差に降伏した。一方、呉王夫差は伍子胥(ごしじん)の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れている。
勾践は夫差の召し使いとして仕えることになったが、暫くして越に戻ることになった。 勾践は呉の属国となった悔しさから、部屋に苦い肝を吊るして、毎日のようにそれを舐めて(嘗胆)、呉に対する復讐を誓った。
484年 伍子胥が、呉王夫差の命令により自害。その際、伍子胥は「(夫差の)棺桶を作るため、自分の墓の上に梓の木を植えること。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置き、越が呉を滅ぼすのを見られるようにすること。」と言い、自ら首をはねた。
この背景には、范蠡による離間の計(りかんのけい)があったともされている。
482年

呉が晋との間の戦争に没頭している時、呉本国が越に攻められ、夫差の息子が越に処刑されるなどの攻撃を受けたが、越も呉を一気に滅ぼすほどの力はなく、いったんは和睦した。

473年 その後も夫差は無理に北へ出兵して国力を消耗した。四年後、越は呉に決戦を挑み、遂に夫差を姑蘇山に追い詰め、夫差は自殺した。この際、夫差は「伍子胥にあわす顔が無い。」と言って顔に布をかけて自殺した。こうして呉は滅亡した。



越王殿内に描かれている絵

越王勾践(こうせん)と臥薪嘗胆



 さて、越王殿に掲げられている絵です。絵の中央は、呉との戦いに敗れ、屈辱を耐え忍ぶ越王勾践(こうせん)です。そのまわりに、色々なエピソードも描かれていますので、いくつかご紹介しましょう。
 この絵の反対側に、呉との戦いに勝利した越王勾践(こうせん)も掲げられていますが、それは後ほど紹介します。
  
 ところで、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」とは、「復讐の為に耐え忍ぶこと」、また、「成功するために苦労に耐える」という意味です。上の年表にも記載しましたが、「夫差は薪の上で寝て(臥薪)、父の恨みを忘れないようにした」「勾践は部屋に苦い肝を吊るして、毎日のようにそれを舐めて(嘗胆)、呉に対する復讐を誓った」というように、「臥薪」と「嘗胆」という語は別々に使用されていたようです。これが「臥薪嘗胆」という一つの語として初めて使用されたのは、「十八史略」の中のようです。

会稽(かいけい)の恥


 「会稽(かいけい)の恥」の絵です。会稽とは、昔の紹興の名前です。紀元前494年、会稽山に追い詰められた越王勾践(こうせん)は范蠡(はんれい)の進言に従って、夫差の臣下になるという屈辱的な条件によって、呉王夫差に降伏しました。
 これから転じて、「会稽の恥」とは、「敗戦の恥辱」「他人から受けた耐え難いほどの辱めのこと」を意味します。


 含垢忍辱(がんくにんじょく)です。この四字熟語も、もとを質すと呉越の戦争なのでしょうか。
 呉の兵士の監視の下で、もくもくと重労働を行う越王勾践(こうせん)と夫人です。なお、「含垢忍辱(がんくにんじょく)」は、じっと屈辱に耐えること。忍の一字の態度、をいいます。


 「秣馬練兵」と書いてあります。これは、日本の四字熟語にはなっていないようです。「秣」は「まぐさ」のことです。
 「孫子の兵法」の中に出てくる話で、越王勾践(こうせん)は、9年間まぐさをやって練兵することにより、自力を蓄え、ついに、長距離を進軍して一気に大いに楚軍に破っています。小国が大国を攻めるときの兵法の一つです。



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西施詣呉……范蠡(はんれい)の策略


 越の重臣、范蠡(はんれい)は、呉を倒すために、様々な手段を使います。「西施詣呉」と書いてあります。読んで字のごとく、西施が呉を訪問するという意味です。
 この絵は、絶世の美女といわれている西施を、呉王夫差に連れて行くところです。西施は、虞美人、王昭君、楊貴妃とあわせ、中国四大美女の一人とされています。また、杭州にある西湖は、西施のように美しい湖の意味をこめて西の字を充てたといわれていますし、唐代、宋代の詩人が、西湖と西施をよく結び付けて、詩を詠っています。


 西施の魔力・魅力により、思惑通り夫差は骨抜きになり西施に溺れて傲慢になっていきます。范蠡(はんれい)、呉に対して、一方で名参謀である伍子胥を離間させ、一方で国王夫差を堕落させていったわけです。呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになります。

 夫差が自決し呉が滅亡した後の西施ですが、范蠡(はんれい)とともに、斉の国に移り住んだようです。もともと、范蠡(はんれい)の女であったという説もあるくらいです。
 しかしながら、西施は、この呉越戦争を描いた「史記」には登場してこないので、真実はよく分かりません。

複国雪耻……越王勾践の勝利


 こちらは、呉との戦争に勝利し、力強く宣言している越王勾践です。「臥薪嘗胆」の勾践とは顔色も、顔つきも全く違いますね、
 「複国雪耻」というのは、日本の四文字熟語にはありませんが、意味としては、「国を再興して恥を雪辱する」といったことになります。
 臥薪嘗胆の絵と同じように、この絵のまわりに、呉を破るまでのエピソードがちりばめられています。



属鏤賜死……伍子胥の自害


 上の年表にも書いたとおり、呉の重臣、伍子胥は呉王夫差の命令により自害します。絵は、「献じた剣により自害せよ」との夫差の命令を受け、自害するところです。「属鏤賜死」と書いてあります。「属鏤」は夫差が献じた剣の名前で、その剣で死を賜るという意味になります。
 伍子胥は、北の晋との戦争に終始する夫差を諌めていましたし、越の勾践の動きにも注意するよう進言していました。伍子胥の死後2年後に、呉は越に攻め込まれ、王子二人が殺害されます。この伍子胥の自害が、呉の滅亡を早めたともいわれています。伍子胥と呉王夫差との間に不信感を抱かせたのが、越の重臣、范蠡(はんれい)による離間の計(りかんのけい)であったともされています。
 

瞑目自盡……呉王夫差の自害

 
 最後にご紹介するのは、越に敗れた夫差の自害です。夫差は自害するにあたって、「伍子胥に会わす顔が無い。」と言って顔に布をかけて自殺したといわれています。
 この呉越戦争は、ストーリーがなかなかドラマチックですね。
 最後になりますが、呉越戦争に関心のある方は、蘇州の盤門風景区にある伍子胥祠へ行くのもおすすめします。



蘇州で呉の立場から呉越戦争を見てみると


 呉の本拠地は今の蘇州です。蘇州城は、紀元前508年に呉王闔閭(こうりょ)が城を築いたのがその始まりです。設計したのは、伍子胥(ごししょ)であるとされています。当時、伍子胥が蘇州に作った城門の中で、今でも残っているのは上の盤門だけです。写真の通り、呉の旗が城門の上にたなびいています。


 盤門の中の伍子胥祠にある伍子胥像です。善良そうな顔をしてますね。やはり蘇州では伍子胥は悪役ではなく英雄なのです。
 紀元前494年、呉王夫差が会稽(現在の紹興)で越王の勾践(こうせん)を破ったときに、伍子胥は越王勾践(こうせん)の降伏を認めず一族を根絶やしにすることを呉王夫差に進言します。しかし、呉王夫差はその進言を拒否し、その後、越の范蠡(はんれい)の策略により、呉の経済の破綻(范蠡が呉に送り込んだ西施が呉王夫差に大量の無駄遣いをせびった)や伍子胥の失脚(デマを飛ばして呉王夫差から自刃を命じられた)といったことを経て、とうとう紀元前473年に呉は越に滅ぼされることになるわけです。
 伍子胥が自刃したのが紀元前484年です。その2年後の紀元前482年に、越は突然呉に反旗を翻し、挙兵しています。まさに伍子胥を亡き者にしたからこそできた挙兵でした。逆に言えば、伍子胥さえ生きていれば、呉は越に滅ぼされることはなかったかもしれません。


 一方、こちらは蘇州近傍にある西施ゆかりの地、木涜古鎮です。木涜古鎮は昔の街並みを残す古鎮の一つとして人気の観光地なのですが、上の写真は西施橋という橋で、あちこちに西施の面影が残っています。
 その西施と木涜との関係なのですが、呉王夫差の寵愛を受けた西施が呉の国の財政を破綻させるために、戦費や兵士らへの給与を削らせるばかりでなく、ここ木涜に館娃宮という大御殿を建てることを呉王夫差におねだりしたという場所なのです。ここ木涜の大御殿が、呉の財政を圧迫させたことは言うまでもありません。これはまさに范蠡の作戦なのですが、西施が「傾国の美女」といわれるのにはこうした経緯があるのです。


 廊橋(屋根付きの橋)に残る昔ながらの商店街で見かけたマネキンです。西施の街、木涜らしく、シルクの店ですとか、女性のドレスの店などが比較的多いようです。西施もこんなドレスを着ていたのでしょうか。古典的なチャイナドレスと並んで子供服が売られているあたりが、木涜らしさを感じさせます。


呉越戦争を小説で読んでみましょう!

呉越舷舷

 『臥薪嘗胆』『会稽(かいけい)の恥』などの故事成語を現在に伝える呉越の抗争劇を描いた傑作です。作者の塚本青史は、中国歴史小説を得意としており、このほかにも三国時代や漢の時代など、中国の様々な時代を背景とした小説を書いています。
 この作品では、伍子胥、范蠡といった呉越の策士達が繰り広げる壮烈な歴史物語に、中国絶世の美女、西施やあの孔子も物語りに絡め、独自の味付けをしているところはさすがです。
 この小説を読めば、呉越戦争がよく分かります。


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